プロレスラーには名言・迷言・珍言が多い。
そして、その言葉の背景には、言葉を産んだ時代の物語やプロレスラーの生々しさが浮き彫りにされるような物語があるものだ。
言い方を変えれば「名言からみた日本プロレス史」。
第4回目は三沢光晴のこの名言!
「明日はどうなるか分からない」
昨今のプロレスラーのコメントを見たり、聞いたりしていると、心底から本音の会話が出なくなっているように思える。
なんか誰かに言わされているような、あるいは通り一遍のセリフ、「フザケンナ。次はぶっ殺してやる!」的WWEごっこが広くプロレス界に分布し始めていて、食傷気味なのだ。
トップレスラーの試合後のコメントなどを聞いていても、言葉の遊びをしているような上っ面の軽〜い内容。
なんだかさあ、自分の経験からくる、自分自身の言葉を持っていないんじゃないの、と言いたくなる。
嘘っぽいのだ。
皆さん、IQ低下レスラーの人口密度が高くなっているような気がしませんか!
「明日はどうなるか分からない」
これは2002年に「三沢光晴の美学」がベースボールマガジン社から発売されたが、その時の三沢光晴インタビューで語った名言だ。
その箇所を掲載すると、ジャンボ鶴田がよく体にいい食べ物を勧めてきた時のことを思い出して「僕は自分の食べたいものを食べますよ。自分の体は明日どうなるか分からないんだから、好きなことをやって好きなものを食べたっていいじゃないですか。俺ずっとそうやってきましたからね」と語っている。
「明日はどうなるか分からない」は熾烈なプロレスを展開しているプロレスラーなら誰でもそうかもしれない。
三沢は2009年6月13日、広島総合体育館大会において潮崎とのコンビで齋藤彰俊、バイソン組と対戦し、齋藤のバックドロップで頸椎を負傷。
救急搬送されて22時10分、帰らぬ人となった。
だからこそ、この言葉がディープな名言となった。
三沢はさすがジャイアント馬場の跡を継いだレスラーだけあって、試合後のコメントを聞いてもレスラー以前の人格を持った人間の言葉で話してくれ、私は大好きなレスラーだ。
三沢はご存知のように全日本プロ入り3年目の1984年に運動神経の良さとセンスを買われて2代目タイガーマスクとしてマスクをかぶり、天龍離脱後の危機的状況の際には全日本の柱として素顔の三沢に戻り激しい四天王時代を築いて行った。
馬場の死後、オーナー・馬場元子夫人との経営感の違いから2000年6月、全日本を離脱してNOAHを設立。
この時、三沢を慕ってほとんどのレスラーがNOAHに参加した。
三沢について行けば、ちゃんとしたプロレス団体になると踏んでのことだったに違いない。
それほど信頼されていたということだ。
そんな三沢の数々の言葉は、新しいもの好き、ギミック好きのファンにとっては平板で物足りないのだろうが、私のようにプロレスにリアリティーを求める人間には、きわめて安心感があって、心地よい。
その言葉にハッタリや嘘がないからだ。
三沢は覚悟を決めたらフラフラせずにテコでも動かぬところがある。
巡業中、街でヤクザに絡まれたことがあった。
ヤクザはカッカと頭に血が上って「殺すぞ、てめえ」ときたが、三沢はまったくたじろがず「殺してみろや」と一触即発の状況になった。
一緒にいた冬木弘道が仲裁に入って喧嘩を止めたので最悪の事態にはならなかったが、三沢の凄みが出た場面でもあった。
冬木の名前が出てきたので冬木の話をしよう。
2002年4月7日、NOAH有明コロシアムで三沢とシングルマッチをやった。
この試合の2日後、冬木は自分がガンを患っていることを公表し、今後はプロデューサー業を行うと発表した。
この時、義侠心の強い三沢はすぐに同月14日、ディファ有明で冬木の引退式を執り行う段取りをつけた。
さらに冬木が設立したWEWの5・5川崎球場大会旗揚げ戦には三沢はじめNOAH勢が参戦協力することにもした。
もしも冬木の出場が難しくなったら冬木の代わりに三沢が責任を持って大会を指揮・面倒を見るということにもした。
三沢とはそういう男なのだ。
ちなみに記者に「そこまで冬木のことをするのは凄い」と言われた三沢はまるで高倉健のように真面目な顔でこう言ったものだった。
「別に良くできた人間じゃないですよ。ただ情が入っている人間に対して何かしてあげたいって思うだけのこと。自分の目の前で困っているのを黙って放っておくのが嫌なだけです。自分自身が納得したいだけで、そんなかっこいいもんじゃないですよ」
思わず、健さ〜ん!と叫びたくなるねえ。
三沢光晴
本名・三澤光晴。1962年6月18日、北海道生まれ。足利工業大学附属高校レスリング部出身。国体フリースタイル優勝。1981年3月、全日本プロレス入門。84年に2代目タイガーマスクとなりNWAジュニアヘビー級王者になったが、同年10月ヘビー級転向。90年、天龍のSWS移籍によって素顔の三沢光晴に戻り、全日本の柱として三冠王者となり四天王時代を築く。99年に馬場が死去すると元子夫人と対立し、全日本を離脱。NOAHを旗揚げ。2009年6月13日、広島総合体育館大会において齋藤のバックドロップで頸椎を負傷。救急搬送されて帰らぬ人となった。享年46歳。
安田拡了(やすだ かくりょう)
・1954年(昭和29年)5月27日、岐阜県不破郡垂井町生まれ。青山学院大法学部私法学科卒業。中日新聞系の夕刊紙・名古屋タイムズ社に記者兼カメラマンとして入社後プロレス専門記者としてもスタート。同時にベースボールマガジン社『週刊プロレス』で依頼原稿の執筆を始める。『週刊プロレス』、『格闘技通信』のスタッフ・ライターや『ワールドプロレスリング』解説者などで活躍。