プロレスラーには名言・迷言・珍言が多い。
そして、その言葉の背景には、言葉を産んだ時代の物語やプロレスラーの生々しさが浮き彫りにされるような物語があるものだ。
言い方を変えれば「名言からみた日本プロレス史」。
第三回目はアントニオ猪木のこの名言!
「俺の非情さと藤波の俺に対する情が勝負を分けた」
(アントニオ猪木)
1985年(昭和60年)は新日本プロレスが危機的状況に陥った年だった。
85年前半をざっと見てみよう。
前年に新日本を飛び出した長州力たち維新軍団のジャパンプロレスは、新日本との契約問題がクリアになって新春の1月から、提携の全日本のリングに上がった。
長州らの参戦によって全日本の選手たちが目の色を変えてファイトしはじめ、大いに全日本のリングは盛り上がっていった。
2月21日、ジャパンプロレスは大阪城ホール大会を開催していて、長州力が全日本・天龍源一郎にリングアウト勝ちし、4月23日全日本の相模原大会では長州がなんとNWA王者のRフレアーに挑戦(両者リングアウト)。
さらにジャパンは東京・世田谷区池尻に新道場完成させ、8月5日の大阪城ホール(ジャパンプロ主催)にSSマシーンが現れて長州と握手。
長州は『俺たちの時代』をアピールし、オールスター戦を呼び掛けた。
そして、この勢いを後押しするように全日本を放送する日本テレビが『全日本プロレス中継』のゴールデンタイム復帰(10月から)を発表する。
またSSマシーン、ヒロ斉藤、高野俊二が新日本を離脱しカルガリーハリケーンズとしてジャパンプロレスに合流するなど、長州らジャパンプロレスと全日本プロレスはプロレス界の話題をさらっていたのだ。
おかげで新日本の会場は閑古鳥が鳴いて、起死回生とばかりにブルーザー・ブロディを引き抜いて3月登場させるが、まだまだ勢い不足だった。
そのような状況で新日本は9月19日、東京体育館大会において、アントニオ猪木vs藤波辰巳(現在、辰爾)戦を行なった。
久しぶりに8290人の大観衆を集める大興行だった。
藤波は20分過ぎに足4の字固めで猪木を苦しめた。
猪木は「折るなら折ってみろ!」と挑発した。
藤波は6分あまり猪木の足を絞め上げたのに、何と自らほどいてしまった。
このあと猪木は藤波に卍固めをかけた。
しかも3度も。
特別レフェリーだったルー・テーズは3度目の卍固めで「これまでだ」と判断。
レフェリーストップをした。
試合後、猪木はテーズを真ん中にして藤波と会見した。
今回の名言はこの時のアントニオ猪木のコメントである。
「藤波は足4の字で俺の足を折れなかった。俺は藤波の腕を折る気だった。俺の非情さと、藤波の俺に対する情が勝負を分けた」。
その時、猪木のコメントを黙って聞いていた藤波は記者の質問に「猪木さんの足を折ったら、会社はどうなるか。この気持ちをわかってください」と声を震わせて席を立った。
藤波が去ったあと猪木は「この紙一重の差。これがなかなか藤波は越えられないんだ」と語った。
猪木の発言は厳しいものだった。
しかし、愛弟子の藤波が猪木の足を折ってしまうことなどできるわけがない。
猪木がリングに入場するとき、藤波がロープを上げて師の猪木を迎え入れていたことでもわかる。
前後するが、長州が8月に世代交代を訴えて『俺たちの時代』をアピールした。
藤波にもオールスター戦出場を呼びかけたが、藤波は週プロのインタビューでこう答えていた。
「長州の気持ちはよくわかる。しかし、俺と長州では何かが違う。目的が同じでも方法論が違う。俺は猪木・馬場ファンで、猪木、馬場さんがトップでやっていたプロレスにあこがれて入ってきた。長州は就職としてプロレス界に入ってきた。この違いがあるんだよ。9・19の猪木さんとの対戦も、猪木さんを引退に追い込むとかではなくて、自分の力を試したいんです。そのためにどうしてもやりたい」
藤波の「引退に追い込むとかではなく自分の力を試したい」という思考は、いまあるものを力で抑えつけようとか破壊しようという発想は微塵もない。
ある意味、ジャイアント馬場と同じような『王道』主義でもある。
アントニオ猪木はいかにも力道山の生き方を継承するかのように、プロレスラーというのは誰とやっても強くなければならないという発想があって、それゆえに新日本は『ストロングプロレス』なのであって、これは『王道』と対局する『覇道』主義である。
猪木は藤波戦の前に週プロ誌上で作家・村松友視と対談し、こんなことを言っていた。
「彼にもっともっと盗みとって欲しいものがある。この闘いで彼が自分の世界から突き抜けるきっかけを作れたらいい。私に近づいても面白くないでしょう。私から遠い方向にいくのが藤波にとって正解じゃないかな」
この発言を藤波は読んでいたはずだ。
しかし、藤波は師弟の壁と王道的に会社を守ろうという意識があって、ついに「突き抜ける」ことができなかった。
「俺の非情さと、藤波の俺に対する情が勝負を分けた」という猪木の名言は、王道的な藤波に対する鋭い明察である。
猪木が藤波の立場であれば、きっと骨を折ってでも覇道的に会社にエネルギーを与えようとしたに違いない。
安田拡了(やすだ かくりょう)
・1954年(昭和29年)5月27日、岐阜県不破郡垂井町生まれ。青山学院大法学部私法学科卒業。中日新聞系の夕刊紙・名古屋タイムズ社に記者兼カメラマンとして入社後プロレス専門記者としてもスタート。同時にベースボールマガジン社『週刊プロレス』で依頼原稿の執筆を始める。『週刊プロレス』、『格闘技通信』のスタッフ・ライターや『ワールドプロレスリング』解説者などで活躍。